昭和51年06月16日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多い。これは本当に大変な事だと思います。本当に神様の御都合というか、神様の御神徳の現れというか、それをそのう気付くと言う事が、いよいよ心から喜びが湧き、心から神恩報謝の生活が出来る事になる。そこが分からんと、お参りしておっても信心を続けておっても、ただただおかげを頂いておっても、頂いておっても頂きたらんような、不足こそ言わないけれども、不足のようなものが心の底にある。
 何時まで経ったっちゃおかげ頂ききらんと言った様な考えが心の中にあっては、本当のおかげにならない。いわゆる神様の心を分からん事もはだはだしい事になる。本当に神様の心が分かって参りませんと、そういうおかげをおかげと実感する事が出来ない。昨日、石川さんが改まってお参りをされました。そしてお礼のお届けがあったんですけれども、実は私の方に爺も父も30代で亡くなった。
 私の方にはそういう、男は早死にをするというめぐりがあると言う事をあったと言う事を、そして私が70何歳まで今日このようにして、おかげを頂いておると言う事を、改めて気付かせて頂いて、お礼の足りない事に気付いたと言うておられます。同時に信心を頂くようになって、いつも心に安定した心というか、落ちついた心というか、まぁ妙な話ですけれどもというてお話されるのに、テレビであのう水戸黄門がこの頃終わって、この頃は大岡越前守があってますね。
 私も夕食の時間ですから、久富先生達とそれを見せて頂いておったんですけれども、毎日そのう水戸黄門、いわゆる漫遊記であります。それにどういう例えば破局というかどういう難儀な中に追い込まれて、もうこりゃ水戸黄門の命も、今日が最後だろうかと言った様なとこを通るけれども、見ておってですね安心がある事は、いや水戸黄門は絶対殺されん。必ず助さん角さんが出て来てから助ける。
 こう思って見るから肩がこりませんし、どういうところに追い込まれても、必ず助かると言う事を確信してから見よりますから、本当にそういう意味でです、私と水戸黄門が同じ事と言う様な気が致しましたと言われるんです。自分が信心を頂いているおかけでです、もう普通でいうならば、ない命を何回となしに助けて頂いた。つい三、四年前はもう胃がんで同じ程度の胃癌の人は、手術をして1年間後には亡くなられた。
 私はもう本当に胃がんと言われた時には、それこそ命がもうこれでしまえたという思いがしたけれどもです、ここにお参りをさせて頂いて、安泰と言う事を頂いて、泰然自若とした心で受けていきゃ、おかげになると言う事を聞いて、とうとう医者にもかからずにおかげを頂いておると言う事が、長年の言うならば、おかげを受けておると言う事実。いうならば30代でなくなる、もういうならば寿命の倍以上は生き延びのおかげを頂いて、そして難しいような中に置かれて居ってもです。
 それこそ水戸黄門もじゃないけれども、大丈夫と言う様な神様を何とはなしに信じる心が出来て来たと言う事がです有り難い。その事に昨日は気付かせて頂いてというお礼のお参りでした。皆さんでもそうでしょう。もう人のお商売昨日は冨久信会ですから、商売人の方ばっかりが集まっております中で、様々経済の面でもぎりぎりの所を通っておるような人達がおる。もう倒産するかも知れんと言った様な所を通っておる人達がです、例えば倒産してもです、そこから道が開けるという心に安らぎがある。
 これを改めて信心をさせて頂いておる者のこれは喜びであり、そこんところをお礼を申し上げなきゃならんと言った様なお話がでました。目に見えるおかげより、目に見えないおかげが多いというのです。久富正義さんが発表しておられましたが、いわゆる久富建設という土木建設の請負をなさっておられます。おかげを頂いて段々おかげを頂いて来ておる。そしてあのまぁレジャーの時代が来るという見通しから、ゴルフの練習場を始められた。ところが最近の不景気で非常にお客さんが少ない。
 まぁいうなら赤字です。ところが不思議な事にです、その本業の土建業の方でそれをずっとカバーして頂けるだけの、おかげを頂いておると言う事を思うにつけてです、ただ親先生のお許しを頂いて始めさせて頂いた事だからと言う、いわゆる水戸黄門さんが決して倒れはしない、殺されはせんと言う事の様にです、その安心をいつも持っておる。そこにいうならば今までの通りであったならば、片一方の仕事が赤字になるならば、それだけはマイナスになっていかなければならんのだけれども。
 おかげを頂いて確かにこちらは赤字になっていきよるけれども、片一方の本職の方でそれだけのカバーが出来て、おかげで自分でも、まぁ不安に思っておったような大きな借金も、段々少なくなっていっておるという発表をされました。してみるとそういう例えば片一方は赤字だけれども片一方は黒字という、その辺の所の働きというものは、もういわゆる目に見えない所の2おかけです。神様にお願いしてお取次ぎを頂いて始めたばってんからもう赤字続きでと、その赤字の方だけを言うたらもう信心はおしまいです。
 けれどもお取次ぎを頂いてなしておるとだから、いうならば立ち行かん事はない、成程立ち行かん様な赤字だけれども、片一方の仕事が今まで5ありよったのが10ある様になったとこう言う訳です。ですからカバーが出来ておると言う事。そういう中に私は目に見えるおかげより目に見えぬおかげを感知する。それを実感する所から、日々信心を頂いている事の喜びを、感じながら信心して行く事が出来ると言う風に思います。
 おかげを頂いて、本当に30代でもし爺やら父のように早死にしとったら今ごろの自分というのはもうありようもない。けれども信心頂いておったおかげで、特別どうと言う事はないけれども、めぐりのお取り払いを頂きながら、70幾つまでも生き延びのおかげを頂いておると言う事を本当に実感をした。だから改めてこの事はお礼を申し上げなければならんという、特別なお礼参拝と言う事になった。
 同時にいつのまにか自分の心の中に、水戸黄門が決して殺されはしないというその事を思うて、その水戸黄門のテレビをみておるように、自分というものをです、勿論寿命がくれば別ですけれども、例えなら普通でいうならば、死刑の宣告を受けるような胃がんなら胃がんと言われてもです、おかげを頂いて自分も助かる。自分はおかげを頂けると言う様な安心を、頂く事が出来るとこういうのです。頂いておると言うのです。
 そこに今まで気が付かなかった目に見えるおかげより、目に見えぬおかげに気が付いて、改めてお礼と言う事になったんです。これは銘々のも今の難儀と言う所だけに目をおかずに、今困っておるという、長年信心しよるばってん一向におかげ頂き切らんと言った様な考えではなくてです、おかげを頂いておる、目に見えないおかげの分部が多いと御っしゃる、目に見えないおかげとは自分は、どこのところを頂いたら喜びの心が湧くだろうかと言う事になってこなければならんと思います。
 今日の祈願詞のところは、「かしこき天地書附を、わが信心の要とし、いかなる時にも金光大神の道貫きて、神の働きそのままに、わが生活の真実を丁寧親切愛をもて語りゆき。合楽信奉者相共に人の助かるお役に立た注連たまえ」と、これは昨日大体頂いたところだと思いますね、昨日のご理解の中にここんところがあったと。天地書附をわが信心の要とする。物ではない金ではない、自分の心の中に、どういう中にあっても心が潤うておるおかげを頂きたい。
 都合のよい時だけはにこにこ、都合が悪くなれば言うならば、寂しくなると言った様な事ではない。どんな場合でも金やら物やらではない、自分の心自体が助かっておる心の助かりを、先ず頂きたいという願いを立てると言う事だと思いますね。そこんところを自分の信心の要と、和らぎ喜ぶ心を頂くと言う事をおかげを頂いて、やわらぎ喜ぶ心にというのではなくて、形の事は別にして和賀心を求めていく、そこに限りないおかげの頂けれる信心を頂きたい。
 いかなる時にも金光大神の道貫きてと、ここんところを昨日、お話しましたですね、祝いのお話がそうでしたですね。10キロ掘った、15キロ掘ったと言うても水がでない。しかもそこにはなんか固い岩石のようなものに行き当たった。もうそれであきらめるというのではなくて、そこを貫いた時に初めて夏でも氷のような水を頂く事が出来る、冬でもお湯のような温かいお水を頂く事が出来る。そこを貫くと言う事がそれこそどんなに苦しい事があっても、そのの苦しい事の底にです。
 地獄の釜の底に極楽はあるんだという、確信をもっていくと言う事ではないかと。いかなる時にもとある、どういう時であっても金光大神の道を貫きて、神の働きをそのままに。いうならば、石川さんが昨日神のはたらきを何十年前を振り返ってみて、神のはたらきをそのままに感じてこられた。目に見えるところだけをおかげと思うておったが、目に見えない事のおかげを分かられた、わが生活の真実をと。
 ありのままの姿であるけれども、そのありのままの姿の中に、目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方を頂いておると言う事。決して頂いておらんおらんものを頂いたように言う事はいらん。けれども確かに頂いておるその真実をです、丁寧親切愛をもって語りゆく。そこにいわゆる人も助かる。昨日のご理解の芯になっとる筈のところが、解き明かされてなかったけども実はそうなんですね。
 自他共に助かると言う所があったでしょう。だからここでは自分の助かりと言う事を、わが生活の真実と言う事を見極めた時にです、いつも本当におかげ頂いておるという、おかげ頂いておればこそというものが、そこにはっきり浮き彫りになってくる信心を頂かねばならん。昨日、冨久信会で福岡の花清さんが夫婦で参っておりました。あのうお花屋さんですね、月次祭の時たくさんお花のお供えがあるあちらです。その主人になる人が発表をしておられましたがね、花の心が分かる。
 だから自分は日本一の花屋になる事が出来る、そんな感じがするとお話されました。私はこの話を聞かせて頂きながら、皆んなが拍手喝采をまぁ致しましたがね。花の心が分からんと花屋は出来ん。石井清さんが発表しておりました。とにかくなら食べ物を頂くでもです、ただ食べ物の心が分からずに頂いたんでは、やはり胃が悪くなったり腸が悪くなったりする訳です。
 食べ物の心を口で頂くだけではなくて、心にです一つ一つを味合わせてもらい、一つ一つをお礼いいながら頂かせて頂くと言う事はです、食べ物の心を分からなければならないと言う事です。頭に心配事やら、何やら何を食べたか分からんごたる事でです、ただ美味しかった美味しかっただけでではです、食べ物の心が分かっていないから、食べ物の方が不平不足をいうだろうとこういうのです。
 私はその話を聞かせて頂きながら、本当に目の細かい信心だなと思いました。お互いが商売人が自分の扱っている商品に対してです、本当にその商品の心が分かる。私がいつもむつ屋の信司郎さんに、「ただ大きくなれ、大きくなれ、美しゅうなれ、美しゅうなれ、問題が起きたたんびにあんたが汚いからだ、問題が起きたたんびに、あんたが小さいからだ」と、だけしか言わないが、どげな風のあんたがたの呉服の一反一反にです、それを売る時買う時に。
 買う時には自分の所に、いうなら嫁を貰うたり、養子を貰うたりしたような気持ちで、これからこの反物のおかげでむつやが立って、行かなきゃならんという心がけになりなさい。それを売る時には、それこそ可愛い愛娘がよそに嫁に嫁ぐ時のように、向こうでいよいよ可愛がって貰うて、末永うおかげを頂くように、その商品に心を込めてというおかげを頂くと言う事は、そのまま商品の心が分からなければそ、ういう実感が出て来ない。ただ売る時にこれを売ったら幾ら儲かると、言った様な事だけしか考えとらん。
 もうとにかく売り付けさえすればよかと、とにかく相手に本当に喜んで貰う、しかも末永く可愛がって貰うと言う様な、養子を貰う時の様な気持ちで仕入れさして貰い、娘を嫁にやる時の様な心持で、人にそれを売らせて頂くと言う事は、昨日花屋さんが言うておられ、石井さんが食べ物の事で言っておられるように、その心が分かっての事である。仕入れる時だけは、これでいっちょ儲かるようにという思いで例えば仕入れる。
 そしてまた売る時には、もうとにかく売付けさえすればよか、と言った様な事では、反物が泣くだろうと。もし反物に心があるならば、不平不足を反物が言うだろう。ただ食べた腹いっぱい食べたというだけでは、食べ物がなくだろう。私はあのう今日のね、わが生活の真実をというのは、真実のいわば本当のいき方。そこから体験が生まれないはずはないと言う事になるのです。その体験を誇張する事もいらない、ただその真実をそのまま「われら信奉者あい共に、人の助かるお役にたたしめたまえ」。
 それを実意丁寧愛を持って人に伝え語っていくところにです、人の助かるお役に立たして頂くと言う事になるのです。あれもおかげであった、これもおかげであったと、と言う事をです、過去の全てがおかげであると気付き、現在ふんまえておる難儀そのものもまたおかけであると言う事が分かる事は、石川さんのそれではないですけれども、おかげを頂いておる事実を、事実として分かったところに、過去が生き現在が又生きるというおかげ。そこに初めて本当の信者じゃと言う様な事になって来る訳です。
 その内容がね、わが生活の真実と言う事になるのじゃないでしょうか。ただ信心をして、おかげを受ける、おかげを受けると言う事ではなくて、そういう信心をしておれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いと言う事に、気付かせて頂くと言う事が、あれもおかけである、これもおかげであると、一切にお礼が言えれる事になって来る。それを具体的に、どう現していったら、どう頂いて行ったらそういう真実の生活が出来る様になるかというと、いうならば大きく言えば神様の心が分かると。
 そしてその神様の心に応えていくという生き方。食べ物の心が分かる。食べ物というならば、お話合いも心でしながらそれを頂く。商品の心が分かる。その商品の心が分からんから、ただ利益追求と言う事だけになって、そこんところのおかげだけが、いくら儲かったという、おかげだけしか分からん。氷山の一角である。その氷山の一角だけしか分からんおかげであるから、自分の思うようにならないとどうして。と言う様な結果にすらなりかねない。
 天地書附をわが信心の要として、どういう中にあっても自分の心が潤うていると言う事は、目に見えないおかげが感じられ、目に見えない自分でも気が付かない、ところのおかげを気付きかせて頂いた時にです、どういう中にあっても、心が潤うて来ると思うです。いうならばお取次ぎを頂いて、お願いさせて頂いておる事であるから、神様のご都合に間違いがあろうはずがない、おかげになる。いわゆる水戸黄門さんが、決して殺されはせんと安心してみらおられるように。
 自分の生き方の上にもです、お取次ぎを頂いての事であるから、これがおかげ落としのもとになるような事はないと、確信して生活が出来るという、この生活が出来るというおかげだけでも人に伝えていくと言う事になったら素晴らしい。いつでも自分の心の中に潤うた心、いかなる時にも金光大神の道貫きてと、やはり貫き通さなければその辺のところが分かって来ない。ここを読ませて頂きながら、人の助かるお役に立たしめたまえ。私はそういう例えば神心が自分の心にあるか否か、湧いておるかどうか。
 世間には沢山の難儀な人がある。自分の周辺をみても本当に大変困った人がある。それを伝えなければおられない、お話をしなければおられない。昨日おとといの御理解の芯が、結合という事でしたね。それを昨日また改めて、結合とは一緒に結び合うと言う事だけではなくて、それが一つになにった時だという意味の事を、昨日字引を引いて分からせてもらいました。なら自他共にと言う事。
 これは昨日ご理解の芯になっております。人の助かるお役に立たしめたまえという、祈りが本気でなされて、人の助かる事が本気で考えられたら、自分の助かりはもう約束されたも同じだと言う事を、ひとつ分からなきゃいけないと思います。それが自他共に助かる。ただ私の事だけが助かる事を願うというのではなくて、人が助かる事のお役に立たせて下さいと言う様な祈りが、果たしてどの位出来ておるだろうか。そこから自分の助かりを神様が約束して下さるものであって確かなもの。
 ただ助けて下さい、助けて下さいというのは、こちらが言うておるだけで、神様がうんと言うて下さらなければ助からない事になる。けれども人の助かりと言う事を本気で願う、その事が神の機感にかなうから、願っておるその人の助かりは、もう神様が約束して下さると言う様な、確信が生まれてくる。水戸黄門がひとつもやられはせん、と言う様な確信を得ながら、助さん、角さんを信じているわけです。
 人の事のためにいうならば教会の為なら教会の為に、合楽教会大発展のお願いを一筋に立てて行けば自分方は立ち行くです。立ち行かんならばまぁだ合楽教会大発展の事を真実に願っていない、祈っていないといって間違いないです。それ程しに例えばなら合楽教会大発展と言う事を願うと言う事は、ご神意に叶うた事です。人の助かりを願うと言う事はそれ程神様が、お前の助かりは約束するというて下さる様なものが、目には見えないけれども、目に見えないおかげの所が心の中に通うて来るのです。
 その通うてくる心がです、自分はおかげになるといういうならば確信ですか。いうならば安心の生活ができると言う事になるのです。それには先ず私共が、花屋さんは花の心が分かり、呉服屋さんは反物の一反一反の心が分からせて貰うて、そういう心を込めての商いと言う事にになってこなければならないように、神様の心が分かったら、勿論自分も助からなければならんけれども、自分よりももっと助からなけれはならない人達の事を祈らずにはおられない。合楽教会大発展と言う事が、神願であるならば。
 神の願いであるならば、その神の願いを共々に願わせて頂けれる時に、私の家もいつのまにか助かっとった、いや助かるという確信がね生まれてくる。そこん所が目に見えないおかげが通うて来る訳です。いつの間にかそういう信心が身に付いて来るというおかげです。人の助かるお役に立たせて頂きたい。そういう願いを込めて私はこの祈願詞を、奏上させて貰わなければならんと言う風に思います。今日は信心すれば目に見えるおかげより、目に見えないおかげというものがです、その様に目に見えないけれども。
 いつのまにか自分の心の中に確信が生まれてきたり、安心が生まれて来たりすると言う事は、それが目に見えないおかげであると言う事を、最後のいうならば祈願詞から聞いて頂き、取分け今日はわが生活の真実をと言う所に、力をを入れて聞いて頂いた積りですけれども、わが生活の真実というものがあるやいなや、わが生活の真実が空であり、嘘の生活では人に伝えるような、体験は生まれて来ないと言う事であります。
   どうぞ。